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税理士穂坂光紀の長い長い自己紹介

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私は、1981年9月19日、神奈川県小田原市で生まれました。男3人兄弟の末っ子、ロマンチストなB型乙女座です(笑)

父は祖父の代から70年以上続く、資源回収業を生業としており、新聞や段ボール、ゴミ、カン、ビンなどを小田原市で回収したり、町の工場から出てくる金属くずなどを金属の問屋に卸したりしています。母やおじなども働くいわゆる典型的な家族経営の会社です。(今は兄が3代目として会社を継いでいます。)

私は末っ子でとても甘えん坊だったので、親に喜ばれるポイントはよく心得ていました。家族や親せきからたくさんの愛情を注いでもらい、かわいがられて育ちました。

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子供の頃は同級生と遊ぶより、2歳上と4歳上の兄たちに遊びに連れて行ってもらうことのほうが多かったと思います。鬼ごっこや缶蹴りなど、外でよく遊んでいました。

兄がやっている習い事は何でもやりたくて仕方なくて、習字やスイミング、少林寺拳法、学習塾などなどを、親にお願いしてやらせてもらうものの、たいてい1年続きませんでした。しかし、肌が合うのかピアノと卓球だけは続きました。ピアノは小学校2年から中学2年まで、卓球は地元のクラブチームに習いに行き、高校3年まで続けました。

高校は、神奈川県立足柄高校へ行きました。音楽が好きで、高校ではずっとバンド練習ばかりしていました。担当はエレキベースです。当時はビジュアル系バンドブームで、GLAYやL’Arc~en~Ciel、LUNA SEAといったバンドが人気を博していた時代でした。

しかし、私は洋楽が好きだったので、個人的には洋楽のコピーばかりしていました。Red Hot Chile PeppersやDeep Purple、Helloween、Linkin Parkなどです。

鬱々とした時代

高校生活は私にとって人生のターニングポイントです。なぜなら私は高校1年のときにうつ状態になったからです。学校を3カ月くらい休みました。

特にこれという理由はありません。いじめられたわけでもありません。ただ、なぜか、みんなと一緒にいるのに、自分がすごく孤独な存在に思え、周囲に距離を感じてしまったのです。表現できない孤立感でした。

ある日突然、電車に乗れなくなりました。電車に乗ると心臓がバクバクして、その場にいられなくなってしまったのです。教室に入ることもできなくなりました。

閉所恐怖症になり、密閉された空間にいることが耐えられなくなりました。朝のホームルームが始まるまでは何ともないのですが、ホームルームが始まって教室のドアが閉まるともうその場にいられなくなり、保険室に駆け込み、家に帰らざるを得ないのです。

親には心配と迷惑をかけました。私が電車に乗ることができないので、毎日車で学校まで送ってもらいました。しかし、学校に行ってもホームルームが始まった途端、教室にいられなくなります。保険室から親を呼んでもらって再度迎えに来てもらうのです。そんな生活を1カ月くらい、毎日続けました。

このあと拒食症にもなってしまいます。体重が激減し、ネガティブ思考が極限の状態に達し、どうやったら親に迷惑をかけずに死ねるのかということをずっと考えていました。

あるときのことです。「このままでは親に迷惑をかけてつらいから死にたい」と父に言いました。夜の10時ごろ、食事が終わって父と私の2人きりの状況でした。

はっきり伝えたというよりも、しどろもどろな感じだったと思います。息子がうつ状態だということは知っていたと思いますが、改めてそんなことを言われて父はショックを受けたのでしょう。今まで父が泣いているところを見たことがありませんでしたが、そのときの父は涙を流しながら「どんな状況であったとしても、お前は俺の息子だから、頼むから死にたいとか言わないでくれ」と言ってくれました

生きていてほしい。そう言ってもらえて、すごく嬉しかったことを覚えています。このときの父の言葉がきっかけとなり、立ち直ることができました。

うつになる経験を経て、私自身の人生観は大きく変わりました。

うつになる前は、中学校まで義務教育を受け、その後は高校に行き、4年制の大学に通ったら就職する。そういうものが人生で、当たり前のことだと思っていました。しかし、当たり前のレールから自分が外れたとき、当たり前に思えていたものが決して当たり前ではないことを知りました。今の世の中は、一度レールから外れた人たちが元のレールに戻ることは極めて難しいことも身に染みて分かりました。

3カ月間学校に行けなかっただけで、勉強が追いつかず、成績が上がらない、推薦で大学に入ることもできない……。きちんと勉強して、いい大学に入って、いい就職先を見つけるというレールは、実はすごくもろいものだと気づいたのです。

道がなくなってしまって怖いと思う反面、自分がやりたいことをやらなければならないと思いました。自分らしく生きとはどういうことなのか、真剣に考えるようになりました。

このような経験がなかったら、今の人生はなかった。そう確信しています。あまり深く考えず、それなりに勉強して、それなりの大学に行って、それなりの就職をしていたら、その他大勢に紛れてしまって、人生の大河に流されて、今の私はいなかったに違いありません。今思うと、こういう経験ができて本当によかったと思っています。

恩師について

うつで3カ月間ほど学校に行けなかったので留年する可能性がありました。しかし、そのときの担任の先生が学年主任などに直談判してくれたのです。「穂坂が2年になっても自分が引き続き担任としてみるから進級させてくれ」と。おかげで私は無事進級することができました。このようなことがあったことはあとで知りました。この先生のおかげで人生をよい方向に大きく変えることができたのです。

この先生についてはもう1つ忘れられない思い出があります。高校2年のときの文化祭のことです。文化祭が終わったあと、私も含めクラスの半分以上が川原で酒を飲みながら打ち上げをしました。誰かが警察に通報してしまい、クラスの半分以上が停学処分になるという前代未聞の事件がおき、私も3日間の停学処分を受けました。

このことで、担任の先生と私、親の3者で話をする機会がありました。担任の先生が私の親に「よかったですね」と言ってくれたのです。1年生のとき学校に来ることができなかった子が、みんなと騒いで停学になるくらいまで元気が回復してよかったですね、と。学年主任からみんなが怒られているときはさすがに神妙なお顔でしたが(笑)。

先生の名前は田中則子さんです。数年前に先生が還暦を迎え、古里の広島に帰ることになって、私と両親、田中先生の4人で食事をしました。今でも年賀状などのやりとりはしていますが、私にとっては一生の恩師です。

コンビニ店長との出会いから税理士へ

高校生のとき、私の人生を大きく変えてくれた人が2人います。1人は今ご紹介した田中則子先生です。もう1人は、私がアルバイトをしていたコンビニの店長です。私が税理士を目指すきっかけを作ってくれたのがこの店長です。

私は大学に進学するつもりはなく、音楽で食っていこうと漠然と考えていました。高校3年から授業を全く聞かず、アルバイトばかりしていました。

このとき、店長がこんなことを言ってくれたのです。

「穂坂な、音楽を目指してやっていきたいという思いはいい。お前の人生だし、人生いろいろだから、そういう人生もいい。だけど、高校に行って授業も聞かずに何もしていないのは時間の無駄だ。お前が高校を卒業して音楽で身を立てるために東京に出るとする。しかし、音楽の世界は大変な世界だ。食っていけるのは一握りだろう。実力以外にもいろんな要素が絡むから、うまくいくかどうかわからないよな。仮に10年くらい音楽活動をして、食っていけないことが分かって小田原に帰ってきたとしよう。高卒で、それまでまともに働いたことがないお前は、そのときに何ができるの。そうなってしまったときのことを考えて、例えば、何か資格を持っていたら、その資格をもとにどこかで働けるかもしれないぞ。例えば簿記とか……」

確かにそうかもしれないと思いました。店長のこの言葉がきっかけで私は簿記を勉強することに決めました。放課後に簿記の塾に通い、高校の授業中は問題集などを解き、簿記3級と2級を高校3年のときに取りました。

この勉強を通して簿記の面白さが次第に分かってきました。2級の上には1級、1級の上には税理士の資格があるということも、そのとき初めて知りました。当時の私は世間知らずだったので、税理士とミュージシャンは両立できると思っていました。音楽の活動を続けながら、資格を取っておくのもいいかなと思い、高校卒業後は横浜市にある大原簿記専門学校に行きました。

もし店長が「例えば、簿記とか……」と言わなかったら、私は税理士という資格すら知らなかったと思います。

数学と簿記の違い

私は数学がとても大嫌いでした。高校3年のときの数学の成績は10段階評価で1と2です。数学はずっと赤点しか取ったことがありませんでした。

なぜかと言うと、数学は抽象的に感じられたからです。例えば「ここにリンゴがマイナス5個あります」と言われても、現実世界にマイナス5個というものは存在しないので、意味が分からないのです。「今勉強していることが実際何の役に立つのか分からない」と数学の先生に聞いたこともあります。しかし、その先生はまともに答えてくれませんでした。高校時代の私は、公式の意味が理解できず、暗記をしようともしなかったので、必然的に数学の成績が悪かったのです。

しかし、数学と同じように数字を扱う簿記は私にとても合いました。なぜなら、簿記は具体的な取引を扱うからです。例えば、何かを1万円で売ったときに、現金が1万円増えて売上が1万円上がるという話なので、具体的にイメージしやすいのです。

簿記は足し残と引き算、割り算、掛け算しか使いません。微分や積分は使いません。とても簡潔なのです。

私がいつも言うことですが、税理士の仕事に求められるセンスは、理系のセンスではなく文系のセンスです。

結局のところ会社は生き物です。会社の帳簿や決算書は数字で記載されていますが、数字ができる過程は物語なのです。その物語がイメージできないと改善の提案もできません。ただ数字をいじくっても、物語の文脈を理解して、問題の原因となる部分を突き止めないと結果を変えることはできません。そこを勘違いしているから、お客様にいい提案ができない税理士が大勢いるのだと思います。

好きな小説

私は小説をたくさん読むわけではありませんが、オグ・マンディーノという人の本がすごく好きで、今もよく読み返します。オグ・マンディーの本は自己啓発に分類されますが、そういう要素を物語として表現されています。

文学や哲学などではなく、何か心に優しい本なのです。『この世で一番の奇跡』という本がありますが、何度読んでも泣けます。『十二番目の天使』もいつ読んでも泣けます。

親に黙って勝手にアメリカ一人旅を実行

高校3年のときに「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」というホラー映画が流行りました。どんな映画か簡単に説明します。

「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は、アメリカのメリーランド州にある「ブレアの森」が舞台です。この森は実際にあり、昔から魔女が住んでいるという伝説がありました。そこで、とある学生3人が学校の論文を書くために魔女の正体を調べようとビデオカメラを持って森に入りました。この3人は行方不明になってしまいます。しかし、ビデオだけは残されていて、それを上映する、というのがこの映画の基本的な設定です。

前評判を聞いて、例のコンビニの店長とこの映画について話をしているうちにブレアの森に行きたくなってしまいました。とうとう高校3年の冬に10日間ほど高校を休んで、ブレアの森に行くことにしました。「ブレアの森に行ってみたい」。だたそれだけの理由です。親に黙ってH・I・Sでチケットを取りました。

しかし、親と当時の担任に「アメリカに何日から何日まで行くことにしました」と直前に報告だけはしました。旅行期間中に卒業試験が実施されると担任から告げられました。その担任がいたってクールで、「別に行ってもいいけど、卒業試験を受けないと卒業はできない」と言います。私は出席日数がただでさえ足りていなかったから、卒業試験を受けないと確実に卒業できません。それでは困るので、もう一度H・I・Sに行って、卒業試験の前日に帰ってこられるように旅行の日程を変更するというドタバタもありました。

成田からケネディー国際空港を経由して、メリーランド州のボルチモアにある空港に行くというルートでした。

初日だけはホテルを予約していたので、まずそこに泊まり、そのホテルのフロントの人に、ブレアの森にはどうすれば行けるかを尋ねました。そのフロントの人がとてもいい人で、いろいろ気にかけてくれました。

ボルチモアからブレアの森の入口まで、車で3時間くらいかかると言われましたが、そこまで行くために公共の乗り物をどのように利用すればいいのか分かりません。すると、英語が話せない私に代わって、行き帰り全部含めて3000ドル、当時の金額で3万円か4万円で乗せてくれるようにタクシーと交渉してくれたのです。

ブレアの森は富士の樹海のようなところです。最終的に危険だから森の中には入れないという話になりました。そこで、映画に出てくる、ブレアの森の入口にある村まで連れて行ってもらいました。主人公たちが出発する際、最初に撮影した村です。その村に行って、映画に出てくるようなお墓や教会を見ました。「うわ、ここなんだ!」と感動しました。そこの写真を撮って帰国しました。映画は日本ではまだ上映されておらず、上映前の宣伝や紹介が雑誌などで取り上げられている時期でした。

10日もあったので時間があまりました。7日間はボルチモアで散歩したりしながらゆったり過ごし、そのあとハワイに寄って3日間過ごしました。

私は音楽で食べていこうと思っていたので、いいベースが欲しいと考え、50万円くらい貯めていました。しかし最終的に大原簿記専門学校に通うことになったので、今すぐ何十万円もするベースを買う必要がなくなり、手元に50万円がまるまる残っていたのです。おかげで本当にゆったりした旅ができました。ハワイのアラモアナショッピングセンターを散歩したり、ワイキキのビーチで頭を空っぽにして風に吹かれたり。今振り返っても本当に楽しいひとときだったと思います。

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簿記1級取得まで

高校卒業後、大原簿記専門学校の税理士コースに進学しました。しかし、いきなり税理士試験合格に向けて勉強を始めたわけではありません。なぜなら、税理士試験を受けるためには、税理士試験の受験資格を得なくてはならないからです。

税理士試験の受験資格は、大卒であることなどいくつかあるのですが、そのうちの1つが日本商工会議所主催簿記検定試験1級に合格するすることです。
私は高卒で専門学校に入ったので、受験資格を得るために、まずこの資格を得ることを目標にしました。

簿記1級の試験は年に2回、6月と11月しか実施されません。専門学校に入学したのが4月なので、最初の6月の試験まで2カ月しかありません。そこで、この2カ月で簿記1級取得を目指す特進クラスに入りました。

非常にハードなクラスでした。月曜日から土曜日まで、朝の9時から夜の9時まで授業がびっしり詰まっています。日曜日も午前10時から午後5時まで授業です。そのうえ宿題が出るので、夜家に帰ってからも勉強しなければなりません。2カ月間休みが全くありませんでした。このクラスに最初は50人いましたが、最終的に残ったのは20人弱ぐらいでした。

2カ月間、私の1日の生活は次のような感じです。まず、朝の5時ごろ起きます。家が小田原だったので、横浜までJR東海道線で1時間ほどかかります。電車の中では寝ていました。

朝ごはんはコンビニかミスタドーナツです。終わったらまっすぐ帰りますが、家に着くのが夜の11時から12時ごろ。そこから宿題に取り組むので、寝るのは午前1時か2時ごろです。そして、また朝5時に起きます。

ここまで頑張ることができたのは、同じ状況に置かれてているのが自分だけではなかったからです。周りに目標を共有できるメンバーがいて、互いに励まし合えたことが大きかったです。同じことを独学でやれと言われたら、無理だったでしょう。

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1級を絶対に取得しようという変なテンションになっていた部分もあります。マラソンと同じようにランナーズハイのようになっていたのです。事実、朝9時から授業が始まるにもかかわらず、みんな7時ごろには学校に来ていました。先生も7時前後には顔を出していました。外部との接触が全くない中で、このメンバーとだけ2カ月間過ごしたので、めちゃくちゃ濃密な時間であり、関係でした。

このときが人生で一番勉強したと思います。そして、6月の試験で簿記1級に無事合格しました。

税理士試験に合格するまで

私は4年間、大原簿記専門学校に通いました。税理士試験は全部で11科目あります。この11科目のうち5科目に合格しなければなりません。1科目ごとの合格率が10パーセント前後と低めで、科目ごとのボリュームもかなりあります。

税理士試験は、すべて合格するのに平均8年かかると言われるくらい、取得までに時間がかかる資格です。私の場合、在学中の22歳までに合格できたのは2科目で、働きながら税理士試験勉強をしていたため、最終的に合格したのは29歳でした。仕事をせずに試験勉強に専念していれば、もっと早く合格できたかもしれませんが、もし仮に早く試験に合格できていたとしても、それほど意味があったとは思いません。なぜなら、私たちの仕事はお客様がいなかったら独立できないからです。

税理士試験に専念して、働かずに試験勉強ばかりしている人がけっこういます。そんな人が早めに合格して税理士になったとしても、それですぐ独立してお客様を集めることができるかというと、そんなことはありません。実務経験も人脈もないからです。

若いと貫禄がありません。税理士の場合は若さがプラスに作用しないのです。
この点、私がよかったと思うのは、ずっと勉強しながら税理士事務所で働いていたおかげで人脈が培われ、税理士になった段階で自分についてきてくれるお客様がいたことです。合格まで少し時間がかかりましたが、その間に10年のキャリアができたことは本当によかったと思います。

大原簿記専門学校卒業後、就職そしてエンパワージャパン創立へ

私が専門学校を卒業した2003(平成15)年ごろは就職氷河期と呼ばれた時代です。会計事務所への就職先もあまりありませんでした。いくつも面接を受けて、最終的に採用して頂いたのが神奈川県で中堅のS会計事務所でした。代表の先生は、非常にバイタリティがあり、新しいことに次々とチャレンジする方でした。私はその事務所に11年間在籍し、その中で本当に色々な経験を積ませて頂きました。私の税理士としてのベースは、ここで培われたと言えます。

息子同然に可愛がってもらい、育ててもらった恩義のある事務所を、ドラ息子のように飛び出してエンパワージャパンを立ち上げたのは、税理士業界の大きな大転換期があったことでした。それは平成27年1月1日に施工された「相続税法改正」です。

これが何かというと簡単に言えば、相続税の基礎控除(相続税の対象とならない財産の限度)を引下げることで、相続税の申告が必要になる方を年間で数万人増やす、近年でも大きな改正でした。この改正が決まったあと、税理士業界では相続税・資産税に専門特化する事務所が一気に増え、不動産業界やハウスメーカー、銀行などと提携して、相続の相談窓口を作ったり、相続対策のセミナーを行う税理士が非常に増えました。

逆に中小企業は減少傾向にあり、価格競争やサービス競争が激化する中で、新しい市場を開拓していこうという流れが明らかにありました。

 

私が在籍していた税理士事務所も、相続税市場を開拓していくために重点を相続・資産税に置く方針が示されました。その時に私は、なんとも言えない違和感を覚えました。私は中小企業を支援するために税理士になったのであり、中小企業が減少傾向にあって苦しい時だからこそ、税理士がなんとかしなければいけないと思い、本当にお世話になった事務所から独立して、2014年4月に中小企業支援に特化した税理士法人エンパワージャパンを立上げました。

亡くなった父について

父は2010年3月8日、仕事中に事故で亡くなりました。60歳のときです。父には感謝しても感謝しきれません。非常に大きな影響を受けました。

父に一番感謝していることは、私と兄2人、誰に対しても「こうあるべきだ」という強制をしなかったことです。本当にやりたいことをやらせてくれました。自分たちが何かをやりたいと言った際、否定されたことがありません。それぞれの生き方を尊重してくれました。

私の一番上の兄はストレートで東京大学に合格して、大学院で博士号を取りました。一方で私は不登校経験者で学歴は高卒です。しかし父は兄弟同士を比較したりせずに、「お前はお前でいい」と言ってくれました。

高校時代にうつになって学校に行けなくなったときも「ほかの兄弟がこうなのに、お前は何でこうなんだ」という類のことは一切言いませんでした。「どんな状態であっても、お前は俺の子供だから、死にたいとか言うな」と言ってくれたのです。

もし親が露骨に比較してきたら、「自分はダメな人間だ」と思い込んでしまったと思います。立派な兄と比べて「自分は何てダメなんだろう」と私は内心思っていましたから。

実家が商売をしていたので、常に近くに両親がいました。父はもともと口数が多いほうではありませんが、私が子供のころは近所のデパートや小田原城近くの遊園地など、いろいろなところに連れて行ってくれました。いつもそばで見守りながら、私たちにも分かるくらい強い愛情で育ててくれたことにも感謝しています。

私が税理士の仕事についたとき、父親も経営者ですから、いろいろな相談に乗れるようになりました。父も経営者である以上は従業員や母、家を継いだ私の兄にも話しづらいことがあります。しかし、私であれば会計的な話も含めて話がしやすいわけです。私が大人になってから、父との距離が近くなりました。飲みながらよく話をしました。「お前が税理士の道に進んでくれてよかった」と言ってくれたときはうれしかったです。学生時代はものすごく迷惑をかけましたが、多少は恩返しができたかも知れません。

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